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ナム・ジュン・パイク 4

 ナム・ジュン・パイクの足下にも及びませんが、大西のCOCAにおける展覧会も大盛況でした。

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 パイクが切り開いてくれた道に、ほんの少しですが大西も続くことができました。(^_^)


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ナム・ジュン・パイク 3

 前回の記事は現代美術に詳しい人にとっては、驚くべきものだったと思います。
 
 大西の意見や考えではなく、事実として当時アメリカの多くの専門家がナム・ジュン・パイクのことを日本人だと思っていたのです。

 そんなことがあり得るでしょうか?

 最大の理由は彼が世界初のヴィデオ・アートの制作者だったということです。

 欧米のどんなアーチストも入手することのできなかったSONYのヴィデオ・カメラ、デッキ、モニターをいち早く手に入れ、世界で初めてのヴィデオ・アートを制作したこと。
 これは日本人でなければ難しいことです。

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 もうひとつ。
 日本と韓国のマス・メディアでは決して報道されませんが、パイクの母国語が日本語だったことです。
 先の記事でパイクが生まれたのは京城(ソウル)と書きました。
 韓国のソウルと書かなかったのは当時、朝鮮半島は日本の植民地で韓国(大韓民国)という国は存在しなかったからです。
 パイクは1932〜45年(0才〜13才)までを日本語で教育を受け、日本語で育ちました。
 1950年、パイクの一家は朝鮮戦争の戦火を逃れ、日本に移住します。
 そして、日本に移住して間もない1952年、パイクは東京大学に入学します。
 東京大学!
 今のように外国人受験生のための英語入試などはありません。
 日本人ですら難しい東大の入学試験に、パイクは日本語で合格したのです。

 もうひとつ。
 パイクは最後まで韓国語の読み書きが不自由でした。
 それは、東大を出た後、ドイツで活動を始めたことが大きかったと思います。
 作家としての活動。
 今とは比べ物にならない程の、アジア人に対する差別。
 そんな中でパイクはドイツ語と英語を覚え、現地で活動をしていたのです。
 韓国語を完璧な物にする余裕は無かったと思います。
 この事が後になって韓国で批判の的になります。
 「パイクは韓国語が不自由だ」
 「パイクは韓国人としての誇りに乏しい」
 「パイクには愛国心が無い」
 私は韓国人ではないので何とも言えませんが、パイクの生まれと育ちを知ればやむを得ないような気がします。
 何より、欧米で活動するアジア人アーチストとしては、パイクの言動はやむにやまれぬものだったと思うのです。

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 パイクはずっと後になって、代表作のヴィデオ・アートをSONYからSAMSUNGに作り替えます。
 歴史的にGEやフィリップスはおろかSAMSUNGでヴィデオ・アートを作るのは明らかにおかしいのですが、そこにパイクの韓国人としての誇りを感じます。

 パイクは最終的に国籍をアメリカに変えますが、死ぬまで家の中での会話は日本語だったと言います。
 それは奥さんが日本人だったからだということも大きいのですが、ハンサムで才能があり、非常に女性にもてたパイクが選んだ女性が日本女性だったのです。
 この日本女性はパイクにも負けないくらい才能のある現代美術作家の久保田成子で、この二人の物語は20世紀の美術の歴史の中で最も美しいラブ・ストーリーだと思います。

 世界で最も才能があり、世界で最も誇り高く生きた韓国人アーチスト。

 ナム・ジュン・パイク。

 その魂は韓国と日本の両方に跨がって、今も燦然と光り輝いています。
 

ナム・ジュン・パイク 2

 ナム・ジュン・パイクに関しては衝撃の事実があります。

 大西は1996年、シアトルの現代美術館COCAで初めて展示をすることになり、胸を躍らせていました。
 当時、COCAは西海岸で最もラジカルな現代美術館と言われ、歴代の展示アーチストはカッコイイ人ばかりでした。

 ジェームズ・タレル、エド&ナンシー・キーンホルツを筆頭にサヴァイヴァル・リサーチ・ラボトリーズ、ローリー・アンダーソン、アーニー・スプリンクル、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(あのノイバウテンです!)、ニルヴァーナ(あのニルヴァーナです!)ロバート・アーウィン、テリー・アレン、デイヴィッド・アイルランド、ドナルド・リプスキー、カレン・フィンレー、ウィリアム・バロウズ、ロバート・ウィリアムズなど、ちょっと現代美術に興味のある若い人なら夢中になってしまうような(カッコイイ)人たちばかりでした。

 館長のスーザン・パーヴスと話している時、興奮して大西はこう言ったのです。
 「日本人の作家で展示した人はいますか?」
 「日本人のアーチストでは僕が初めてですよね」
 スーザンはこう言いました。
 「ナム・ジュン・パイクがいます」
 「え?」
 「日本人の作家ではナム・ジュン・パイクがいます。大西は二人目ですね」
 「・・・・・・・・・・」

 その辺のシロウトが言ったのではありません。
 COCAの館長が言ったのです。

 それは当時の日本人にとってはもちろん、韓国人にとっても全く驚くべきことでした。

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 *次の記事に続きます。

ナム・ジュン・パイク

 いわゆる現代美術の世界における白人の絶対的優位について、お話ししてきました。
 
 では、最初にその欧米白人の壁を破ったのは、だれでしょう。

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 答えはナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)です。

 パイクは1932年、京城(ソウル)に生まれました。

 非白人の現代美術作家と言えば1960年、ニューヨーク生まれのハイチ系アメリカ人、ジャン=ミシェル・バスキアが有名ですが、パイクはバスキアよりはるかに早くドイツとアメリカで大成功を収めたのです。

 何故、パイクの評価が高いのでしょう。

 それは、パイクが「ヴィデオ・アート」の創始者だからです。

 現代美術に限らずアートの世界では様々な技法、様式、分野における創始者が常に議論されています。
 有名なところでは「抽象画」の創始者は誰か?という議論です。
 ロシアのカンディンスキー、マーレヴィッチ、オランダのモンドリアンの3人がそうだと言われています。
 しかし、世界初の抽象画を描いたのが誰か?ということになるとフランス、イタリア、スペイン、ドイツ、イギリスなど、およそ画家のいる国であればどこにだって無数にいるわけですし、子供の描いた絵だって、江戸時代の着物の柄だって、原始人の洞窟の絵だって何だって抽象画だ、と言えば言えるわけです。
 モネが創始者だと言われている「印象派」だって、いや、本当はマネが創始者だった、いや、「印象派」という名前の命名者のルイス・レロイが真の意味での創始者だ、などと議論がつきません。
 美術の評価には様々な物の見方、考え方があり、専門家によって意見が割れるのは仕方の無いことなのです。

 しかし「ヴィデオ・アート」の創始者はナム・ジュン・パイクただ一人です。
 それ以外の意見は存在しません。
 どのような人種差別主義者、白人絶対優位主義者(欧米のアート関係者の多くがかつて、そうでした)でも「ヴィデオ・アート」の創始者にパイク以外のアーチストの名を挙げることはできません。
 
 何故か?

 パイクは日本のSONYが世界で初めて開発した一般市販用のヴィデオ・カメラとデッキ、モニターをいち早く手に入れ、世界初のヴィデオ・アートを制作したからです。
 アメリカのゼネラル・エレクトリックとオランダのフィリップスがSONYと同様の物を売り出したのはずっと後ですから、欧米白人のアーチストがパイクより先にヴィデオ・アートを制作することは絶対に不可能なのです。

 現代美術には様々なジャンルがありますが、これほど大きく重要なジャンルで非白人、非欧米人(バスキアはアメリカ人です)が代表的作家であり、創始者である、ということは驚くべきことです。

 彼が初めてヴィデオ・アートを発表したのは1963年、ドイツ、ヴッパ・タールにおいてだと言われています。

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 ナム・ジュン・パイクに会ったことはありませんが(遠くから見たことはあります)その後継者と言ってよいのがこの韓国のス・ドホ(Suh Do Ho)でしょう。

 素晴らしく美しい作品を作る尊敬すべきアーチストです。

プロフィール

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Author:FC2USER776756SGE
FC2ブログへようこそ!画家の大西信之です。日本とアメリカのファインアートとポップカルチャーに興味があります。最初は自分の仕事、ゆくゆくはその他の事柄についても取り上げていきたいと思います。

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